復活の主との出会い
2023年4月9日復活節第1主日イースター主日礼拝説教
三鷹教会牧師 石井智恵美
聖書:ヨハネによる福音書20章1節~18節
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って、彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。』」(20:1~2)
主イエスの遺体が取り去られた空っぽの墓。それがイエスの復活の最も古い伝承です。マグダラのマリアの最初の問い「主がどこに置かれているのか、わたしたちにはわかりません。」空っぽの墓。それは人間の予想を超えた出来事です。イエスの十字架上の死も、空っぽの墓も。
マグダラのマリアは、どうしてよいのかわからずに泣いていました。再び身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体が置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えます。この天使はマリアに問います。「婦人よ、なぜ泣いているのか」(13節)マリアは弟子たちに言った言葉をまた繰り返します。「私の主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」
次のところが不思議です。「こういいながら後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとはわからなかった。」(14節)後ろで人の気配がしたのでしょうか。マリアは前にいる天使たちに話しかけているのに、なぜ振り向いたのでしょうか。振り向いたけれども、それがイエスだとはわからなかった。私たちは探しているものが目の前にあるのに、気づかないということがしばしばあるのではないでしょうか。衝撃の中で困惑してしまい、それに気づかないのです。しかし、そのような迷いの中にいるマグダラのマリアにイエスは語り掛けるのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか、だれを探しているのか」これは天使の問いかけと同じです。そしてマリアはイエスのことを園丁だと思って、三度目も同じ言葉を繰り返します。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしがあの方を引き取ります。」(15節)
イエスの遺体を引き取る、というマリアの覚悟は、イエスへの深い思慕を示しています。それほどの深い敬愛で結ばれていたのです。マリアはしかし、見当違いのところを探しています。もうイエスの遺体はない空っぽの墓の中を。死が支配している領域をマリアは探しているのです。しかし、復活のイエスは正反対の方から、永遠の命の方から姿を現します。「マリア」と呼びかけるイエスの声、その懐かしい声を聴き、マリアはイエスである、とわかるのです。「ラボニ」(先生)とマリアは応えます。
「復活」は、原語では「起こされる」という意味で、「甦らされる」という受動態です。ですから、イエスが超人的な能力をもって自力で蘇ったのではなく、神によってよみがえらされた、というのが復活の出来事です。それは、呪いと恥辱にまみれた十字架の死が、神によって全き肯定をされた、ということです。イエスの生涯のすべてがそこで肯定されたのです。
そして復活されたイエスはマリアに呼びかけます。大切なことは、この復活の主との出会いがマリアに起こった、ということです。イエスの死の衝撃の中、マリアも弟子たちも混乱の中にありました。自分たちの力ではどうにもならない出来事。命の危険にもさらされている。そのただ中で、復活のイエスとの出会いが起こるのです。この「マリア」「ラボニ」の応答の中に、出会いの喜びがあふれています。今までの衝撃が嘘のように取り払われて、その喜びだけが輝いています。
ですから17節「わたしにすがりつくのはよしなさい」という言葉は、少し奇妙に響きます。
なぜ、この喜びでひとつになった復活の主との出会いに、イエスは水を差すようなことを言うのだろう、と思います。ここは、ヨハネ福音書をもう少し読み込むと答えが少し見えてきます。
ヨハネ福音書の受難に向かう直前の「イエスの祈り」では、父である神と子であるイエスがひとつになっているように、イエスと弟子たちもやがて一つになる、と約束をしています。イエスがこの世を去った後に、助け主である聖霊が送られて弟子とイエスは一つとなり、そのことによって父なる神とも一つになる、ということを。マグダラのマリアにも復活の主イエスはそのことを示したのではないでしょうか。イエスへの思慕に流されるのではなく、最も求めるべきことは聖霊に助けられて一人一人の信仰者がイエスと一つになり、神と一つになること、それをこそ生きなさい、とイエスのことの言葉は示しているのではないでしょうか。
マリアはこの出来事の後、「わたしは主を見ました」と弟子たちに告げ、イエスから言われたことを伝えます。復活の主が私たちに求めているのは、イエスと一つになり、神と一つになること、そのように自立した信仰を生きる、ということではないでしょうか。私たちはマグダラのマリアや弟子たちのように、見当違いの方向に主イエスを捜してしまうこともしばしばでしょう。しかし、そのたびに、命の方から呼びかけてくださる復活の主がいらっしゃることを思い出しましょう。神がイエスを甦らされたということは、呪いと恥に満ちた十字架の死を含めたイエスの生涯のすべてをまったき肯定で包まれたということです。この汲めども尽きない不思議な復活の出来事を、私たちは生涯かけて味わってゆくのではないでしょうか。